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東京高等裁判所 平成3年(行ス)23号 決定 1992年1月09日

抗告人

八尾恵

右代理人弁護士

山下幸夫

相手方

外務大臣

渡辺美智雄

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の趣旨及び理由は別紙「抗告状」記載のとおりである。

当裁判所も、抗告人が具体的な海外渡航計画及びその目的ないし必要性について何ら主張、疎明をしない以上、本件一般旅券返納命令の執行停止の申立ては、その余の点について判断するまでもなく回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるとは認められないので、これを却下すべきものと判断する。その理由は、原決定の理由に説示するとおりであるから、これを引用する。

なお、一件記録によれば、本件旅券の有効期限である平成三年一二月一六日は既に到来したが、そのことによって、右の緊急の必要があらたに生じたものと解する余地も、それを認めるに足る資料もない。

よって原決定は相当であり、本件抗告は理由がないからこれを棄却し、抗告費用は抗告人の負担とすることとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官大石忠生 裁判官白石悦穂 裁判官犬飼眞二)

別紙抗告状

原決定の表示(主文)<省略>

抗告の趣旨<省略>

抗告の理由

第一 原決定の要旨

原決定は、行政処分の執行停止は、当該処分により生ずる回復の困難な損害を避けるため緊急の必要がある場合に限り認められるところ、申立人に現実に海外渡航をしようとする具体的な計画がなければ、申立人に精神的な不満感ないしは不充足感等をもたらすことはあるとしても、それ自体としては、回復困難な損害とまでは言えないし、それを避けるための緊急の必要があるとも言えないので、申立人の具体的な海外渡航計画やその目的・必要性について何ら主張・疎明しない本件申立ては失当であるとして、申立を却下したものである。

第二 「回復の困難な損害」について

一、しかし、原決定は、行政訴訟法二五条第二項の解釈を誤るものと言うべきである。すなわち、同法同項にいう「回復の困難な損害」とは、「処分を受けることによって被る損害が金銭賠償不能あるいは現状回復不能のもの、若しくは著しい損害ではなくとも、社会通念上それを被ったときはその回復は容易でないとみられる程度であれば足りる」と言われているが(杉本良吉『行政事件訴訟法の解説』八八頁等)、具体的には、本案訴訟における救済の有無・程度、国家賠償による救済の実効性、損害の内容を具体的に総合勘案して判断されるべきである(藤田耕三他『行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題』司法研究報告書第三四輯第一号<一九八三年>三九〜四五頁参照)。

以下、本件について検討する。

二、まず、本案訴訟における救済の有無・程度については、抗告人が一般旅券返納命令処分の執行停止を求めた旅券(旅券番号MH三二八一〇四七、以下「本件旅券」という。)の有効期限が一九九一年一二月一六日までであり、仮にこの有効期限の経過により本案である取消訴訟(東京地方裁判所民事第三部係属、事件番号・平成元年(行ウ)第二一九号一般旅券返納命令処分取消等請求事件)における一般旅券返納命令処分の取消の利益が消滅したと考えられるとしたら、右期日の経過により、抗告人は本案判決による救済が受けられなくなるものである。また、仮に、有効期間経過後も取消の利益があるとしても(この点につき、自動車運転免許の取消処分の取消を求める訴訟が継続している間に当該運転免許証の有効期限が経過した場合でもその訴えの利益は失われないとする最高裁一九六五年<昭和四〇年>八月二日第二小法廷判決・民集一九巻六号一三九三頁以下参照)、本件旅券を返納させられてから判決確定まで(これは相当長期間を要すると思われる。)の不利益はほとんど回復されないのであり、この事情からすれば、抗告が本案訴訟により受けられる救済の実効性は極めて低いと言わなければならない。

なお、抗告の利益について付言しておくと、判例・学説上、旅券の有効期間の法的意味については明らかではないが、抗告人としては、旅券有効期間は条件の存続期限の意味であり、期間の経過により当然に失効するものではないと考える。旅券法第一八条第二号は、「旅券の有効期間が満了したとき」にその効力を失う旨の規定をしているが、①海外渡航の自由が憲法二二条により保障されている以上、旅券の発付は、行政法上の許可行為ではなく、名義人の身分事項等を公証するという公証行為と考えるべきであるとすると(春田哲吉『バスポートとビザの知識』<有斐閣選書、一九八七年>一五五頁参照)、有効期間の経過により当然に失効するのは不合理であるとともに、②旅券法第一八条第二号の規定は、一九八九年<平成元年>四月一二日に改正された際に変更された部分であり、旧法では一往復用旅券は有効期間があらかじめ特定されておらず、帰国するまでは無期限に効力を要するとされていたのが、全ての旅券について有効期間満了により失効するという形で規定されたものであり、この改正は、機械読取り旅券(MRP、Machine Readable Pasport)の導入に備えての「技術的適用」(MRPの読取り機械は旅券に記載された有効期間の末日の日付を読み取ってその効力を判定することになっている。)のためと言われており(須田明夫「旅券法の一部を改正する法律」『時の法令』No.一三六一号<平成元年九月一五日号>一二、一九頁参照)、MRPのための技術的な規定の存在をもって、旅券の本質的効力を論定するのは妥当ではない。

三、さらに、抗告人は本案訴訟において国家賠償も請求しているが、国家賠償訴訟を勝訴するためには多大の時間と手間を要し、救済が相当な時間の経過後でなければ与えられないこと及び国家賠償においては処分が違法であったとしても、故意過失、損害、因果関係の立証を要するものであり、とりわけ故意過失の立証は容易でないことに鑑みると(藤田耕三他『行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題』四二頁参照)、国家賠償により抗告人が受けられる救済の実効性も極めて低いと言わなければならない。

四、その上、抗告人が本件旅券の返納命令処分によって受けた損害は非財産的損害(人格的損害)であり、金銭的補償によっては満足させられることが困難な損害である。

五、したがって、右に検討したように、本件旅券返納命令処分については、取消訴訟や国家賠償訴訟における救済の実効性の低いことや損害が金銭的補償になじまない非財産的損害(人格的損害)であることを考慮すると、憲法二二条によって精神的自由権の性格も有するものとして厚く保障された海外渡航の自由を奪った本件旅券返納命令処分により抗告人が受けた不利益は、第二、一で述べた「処分を受けることによって被る損害が金銭賠償不能あるいは現状回復不能のもの、若しくは著しい損害ではなくとも、社会通念上それを被ったときはその回復は容易でないとみられる程度」のものであると言えるのであり、原決定のように、この不利益を「精神的な不満感ないし不充足感等」に過ぎないとして、「回復の困難な損害」にはあたらないとするのは、あまりにも日本国民の海外渡航の自由の基本的人権性(国際人権規約第一二条参照)を軽視するものと言わなければならない。

六、なお、原決定は、その第二項2のかっこ書において、「申立人の主張する回復困難な損害は、単に期間の経過により生ずるものであって、本件処分によって生ずるものではない」と言うが、それは、そのような期間の経過により本案訴訟による救済の実効性が低くなることを主張しているものであり、また、「期間経過後は新たに一般旅券発給を申請することも可能」と言うが、一旦旅券返納命令処分を受けた抗告人に対して、新たに旅券発給を申請したとしても発給拒否されることは確実であって、単に「新たに一般旅券発給を申請することもできる」ことを根拠として回復困難な損害がないというのは実態を無視した議論というべきである。

第三 具体的渡航計画の主張・疎明の必要性の有無について

さらに、原決定は、申立人の具体的な海外渡航計画やその目的・必要性について何ら主張・疎明しない本件申立ては失当であるとして、本件のような旅券返納命令処分に対する執行停止申立に際しては、具体的な海外渡航計画やその目的・必要性を主張・疎明しなければならない旨判示しているが、これは、旅券の本質に反する違法・不当な判断である。

すなわち、旅券の申請に際しては、「有効期間中に渡航の予定がある」という理由だけで旅券を申請することができ、発給された有効期間中はいつでも、どこへでも自由に渡航ができることになっているものである。

抗告人は、この旅券の返納命令に対する執行停止を申し立てており、要するに、抗告人が旅券を有効に所持している状態への回復を求めているものである。したがって、抗告人が失ったのは、いつでも、どこへでも自由に海外渡航できる権利(それが憲法二二条が保障する海外渡航の自由の意味でもある。)なのである。

そうであるならば、このような旅券の回復を求める執行停止の申立てに際して、具体的な渡航計画やその目的・必要性を一々主張・疎明することが必要であると考えることは、右で述べた海外渡航の自由の保障の趣旨に反し、憲法二二条に反する解釈と言うべきである。また、具体的な渡航計画やその目的・必要性についてはその人のプライバシーに関わる事項であり、一々そのプライバシーを放棄して主張・疎明しなければならないとすること自体が、プライバシーの権利を保障する憲法一三条にも反する違憲・違法な解釈と言うべきである。

第四 結語

よって、原決定は、憲法一三条、二二条に反する違憲・違法な決定であるとともに、行政事件訴訟法二五条二項の解釈を誤った違法な決定であり、速やかに取り消されて、本件旅券に対する旅券返納命令処分の執行を停止する旨の決定がなされるべきである。

添付書類

一、訴訟委任状 一通

一九九一年一二月一三日

右抗告人代理人

弁護士 山下幸夫

東京高等裁判所 御中

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